頭の中のいろいろ

頭に浮かんだことや実際にあったことを記録していく予定。不定期のんひり気まま更新

本音

自分と向き合うことほど簡単で、難しいものはない。

心理学用語に、「インナーチャイルド」という言葉がある。

これは幼少期に傷ついた心やトラウマを指す言葉なのだが、そういえば実家には昔からインナーチャイルドに関する本があった気がする。

子供の頃のことだから、もう数十年前のことなのだけれど、当時の私は題名の「インナーチャイルド」を見るだけでイライラしたのを覚えている。

聞いたこともない言葉だったし、宗教による家族間の軋轢があった家なので、またそれに似た何かだと勘違いしていたのだと思う。

多分まだ家の本棚にありはするが、いまだに読みたいとはあまり思わない。

 

しかしながら、インナーチャイルドに関しては少しずつ私は目を向けている最中だ。

要するに、子供の頃の自分に立ち返って大人の目線で自分のことを見つめ、癒すというものである。

実際にやってみると、そんなに大げさなことでもない。

”何か”に対する怒りや悲しみといった感情があったとして、「さて、なぜ私は今このことに怒りまたは悲しみを覚えたのか?」と考えて気持ちと記憶をたどっていくと、子供の頃にたどり着くということがある。

「ああ、子供の頃のこのことがあったから、今でも怒りや悲しみを覚えるのか」

と理解できるというわけだ。

理由がわかったら、その時の自分に共感し寄り添うことで幾分気持ちが晴れやかになるし、同じ出来事に遭遇しても自身を以前よりはコントロールできたり静観できるようになったりするのである。

一つ注意しておかなければならないことは、”当時、自分は子供であった”という点だ。

成長するにつれ分別がつくようになる。

一般的に見て、「その感情は我儘だ」などと過去の自分をさらに痛めつけては意味がない。

その当時の気持ちに自分が寄り添ってあげなければ、子供の自分は悲鳴を上げ泣き続けるままなのだ。

 

私は、「親から愛されている」ということを認めたくなかった。

なぜそう思うのか、なぜ拒否したいのか。

それは子供の頃の家庭環境に問題があった。

食事を抜かれたり、服を着せてもらえなかったり、身体的虐待はされていない。

しかし精神的にダメージを負うには十分な家庭だった。

学費、養育費、時間を払って育ててくれたことに「感謝しなければならない」。

これが苦痛でしかない。

なぜ苦痛なのか?

 

感謝してしまえば、今まで私がすり減らした気力や感情が”なかったことにされる”気がするからだ。

 

素直に感謝はできない。

 

母の癇癪によるヒステリックで理不尽な要求への困窮

末っ子には甘いと姉たちから向けられる嫉み

勝手に期待して勝手に失望すると言った父…

 

何より、私をまともに見てくれなかった母。

常に姉やクラスメイトと比較し、比較するものがなければ過去の母と比較し、誰かわからない人と比較された。

「そんなこと誰でもできる」

その言葉が、どれだけ子供の頃の私を苛んだだろう。

 

これらの感情を無視して、親に感謝しなければならないのか?

私はあんなに傷ついたのに。

 

それでもきっと、育ててもらっておいて何を偉そうなことを言ってるんだ。

そのくらい当たり前だろう。

大人になってまでそんなことを言っているなんて馬鹿馬鹿しい。

 

そう思う人もいるのだろう。

仕方ない。

子供の頃の私が悲鳴を上げているのだから。

 

辛かったねと声をかけるのもいいだろう。

でも、ただ「本当はこうしてほしかった」と声に出したり、紙に書きだすだけでもいい。

その時に本当は言いたかったことを言ってみるだけで、不思議と気持ちが軽くなる。

不思議と呼吸が楽になる。

すぐさま感情が変わるわけではないけれど、少しずつでも自分と向き合うことができると、ちょっとだけ満足感がわいてくる。

 

頭では我儘だ、こんなことを言ってはいけないと思っていることほど、自分が深く深く傷ついたことだったりするのだろう。

思い切って声に出して、ぼろぼろに泣いたら、心地よい疲労感が訪れる。

 

今日もお疲れ様。

鏡に映るあなたは誰?

大学生の頃のこと。

私はいつからか鏡に映る自分の姿に、違和感を覚えるようになった。

劇的に体型が変わったとか、顔色が目に見えて悪いとか、そういうわけではない。

 

私はこんな顔をしていたか?

 

漠然とだが、確かな違和感があった。

自分の顔を見ても、自分であると認識が出来なかった。

この違和感は、すっぴんの時に感じていたから、メイクをした自分が当たり前になったのかと思った。

実際に、メイクをするときに鏡を見ても違和感を感じることはなかった。

 

とはいえ、それもおかしい事だった。

スポーツ推薦で大学へ入学し、部活にまみれた4年間。

メイクをするのは段々面倒になるし、眉毛だけとかアイラインだけ、と簡略化していたからだ。

それに、休みの日に外に遊びに行くエネルギーもなくて、ずっと部屋で寝て起きての繰り返しをしていたのだから、メイクをした自分を見ることのほうが少なかった。

 

すっぴんの私を鏡で見る時、どうにも自分の存在が揺らいでいる感覚があった。

そこにいるはずなのに、そこにいない感じ。

ふわふわと定まらず、頼りない感覚。

 

あの不思議な感覚は今ではもう感じなくなったが、いまだによく覚えている。

 

何故こんなことを今更思い出したかと言うと、「Shrink〜精神科医ヨワイ〜」という漫画を読んでいるからだ。

この漫画は、超エリートなのにそれを感じさせない雰囲気の、物腰柔らかい男性精神科医が、経営するこぢんまりとしたクリニックで、一人ひとりの患者にとことん向き合うといった内容だ。

とある漫画サイトで読んでいるのだが、今はパーソナリティ障害の回で、色々と思うところがあって、前述の自身の体験を思い出したわけだ。

 

私は気持ちが落ちていた時期でも、誰か助けてくれとは思っても、病院に行きたいとは思わなかった。

あの時期に精神科に行っていたのなら、きっと私は何かしらの診断を下されただろう。

なぜ病院に行きたくなかったかといえば、漫画冒頭にもあるが、精神科に行くということ自体が、そもそも精神的にハードルが高かったということと、何か診断を下されたからといって「だから何なのだ?」と思っていたからだ。

 

病名がついた事で、自分に何が起こっていたのか理解できてよかったという人もいる。

しかし私の場合、私が人よりおかしいのはわかっていたし、全ては私が弱く、人と違うのが悪いと思っていたから、それをわざわざ第三者から認定されることに意味を見出せなかったのだ。

 

薬を飲んだら、何か変わるのか?

ADHDの母は、初めこそ薬を飲む事で「普通の」日常生活が送れると喜んでいたが、段々副作用に苦しめられ、最終的には薬を飲まなくなった。

そんな身近な例を見ていたから、余計に病院に行ったところでという思いがあった。

 

無理やりでも社会に出て実際に働いてみると、自分の価値がそこまで低くないことに気がついた。

実は出来ることが結構あって、感謝されることもあって、そうやって少しずつ自信がついていった。

 

今、鏡を見ても「あなたは誰?」となることはない。

「今日もいい感じだね」

「今日の眉毛はめちゃくちゃいい感じ」

「あ、この角度いいじゃん!」

そんなことを考えられるようになった。

 

ただいまだに違和感を感じるとしたら…

「あなたどんどん太ってるわね…?」

 

ということくらいだ。笑

私か私以外か

とあるホストがタイトルのようなことを言っていた時、私は単純にそりゃそうだろとしか思わなかったし、特段かっこいいだとか、名言だとも思わなかった。

いや、別にファンの方々に喧嘩を売りたいわけではない。

 

私は趣味でタロットをすることがある。

買って数年経つが、いまだにカードの意味も覚えていないのでリーディングする際には本が必須なのだけど。

タロットと一言に言ってもいろんな種類があることは、いざ調べてみて初めて知ったことである。

その中から私が選んだのはトートタロットと呼ばれる種類のもので、単なる占いというよりも、自分自身により気づくことが目的のカードらしい。

絵柄も好みでとても気に入っているが、いかんせんタロットの中でも難しい種類として知られており、これを自在に操ることは生涯無理なのではなかろうかと思うほどである。

本を見ても、ピンとこない事が多く、それが何なの?となることも少なくない。

 

今日はカードリーディングのやり方のところからきちんと読んでやってみると、私のやり方が間違っていたことがわかった。

やり方通りにやってみると、なるほど面白いとなるのだから、やはり取説はしっかり読まなければなるまい。

 

さて、その「ちゃんとしたやり方」で見た自分自身への総評は、

「まあ、そこまで窮地には陥らないしなんとかなるさ」といった感じだった。

(私が自分で結論つけるものは大体そうな気もするが、勝手に考え過ぎているだけということにして、ここではひとまず置いておくこととする。)

私がやっているリーディングでは、今の現状から、内面、人との関わり方、俯瞰的に見た時の状態(高次の意識、存在からのメッセージともいう)などがわかるものだ。

 

今回、親密な関係性の部分では、「窮屈さや嫌だなと思うことが出てきたとしても、その問題の原因は、相手にはないということに気づくべき」みたいなことが書かれていた。

よく子供は親の鏡だなどと言われるが、それは別に親子に限ったことではなくて、自身の内面の問題点を周りの人が代わりに再現していて、必然的にそれと向き合わされていたりするなんてこともあるが、つまりはそういうことなのだなと思ったわけだ。

周りが体現しているのは、主に自身の無意識下での不安や恐怖であることが多い。

つまりは見るべき相手は自分自身なのかと考えた時に、ふと頭に過ったのは母のことで、親子という関係性だった。

私のトラウマの多くの原因は母で、いわばラスボスなわけだけれど、いまだに母に引っ張られて無意識下で恐怖を覚えている。

しかし、その無意識下の恐怖というのは私が過去に母に植え付けられたものであり、現在の母によるものではない。

「問題の原因は相手にはない」というのは、「相手に非はない」ということではなく、要因となったのは相手かもしれないが、それに長く苦しめられているのは自分自身であり、それから解放されるために見るべきは相手ではなく自分自身であるということなのではないだろうか。

そうなると、親子とはただ血がつながっただけの関係性で、家族もまた然り。

ああ、この世界はただの個の集まりでしかないのか。

そうすると、私か私以外しかいないのだ。

と妙にストンと納得したことが不思議で、なんて今更なことをと思いつつ、感慨深くなっている。(少々飛躍し過ぎている感じもあるが、ストンと落ちてきた感情を言葉に表すことが難しい)

 

冒頭に戻るが、某ホストが言っていた「自分か自分以外か」という言葉の真意はわからないが、私なりの解釈が生まれたことによって、やはりこういったことは誰かに言われて気づいても深く納得し理解することは出来ないのだと実感した次第である。

 

 

鳩尾にも限界がある

仕事納めで帰るエレベーターの中、接点は特にない職場の人が、同系列の職員の話をしていた。

エレベーターの中での小さな小さな会話だったから、確かかどうかはわからないが、どうやら悲しい出来事が起きたらしい。

 

最後の最後に重たいものを持ってしまったと思い帰路に着く。

 

山道を走りながら、何故か今まで嫌だったことやむかついたことなんかがとてもよく思い出されて、今更ながらむかついていた。

 

私が引きこもりになったのは、きっと子供の頃から溜めていたものが、もう溜められなくなって溢れ出たからなのだと思う。

 

溢れ出た何かが私を無気力にして、どうやって命を終わらせようかと考えさせた。

 

 

 

昨日、アマプラで初めて竜とそばかすの姫を見た。

なんだ、サマーウォーズじゃないかと思った。

だから今日はサマーウォーズを見た。

サマーウォーズをやっぱり好きだなぁと見ていた。

 

鳩尾に力が入って横隔膜を引っ張り硬くなった影響は、反り腰にくるらしい。

もともと腰痛持ちではあったが小康状態だったのがここ1ヶ月ほどでまたぶり返している。

整体で言われて鳩尾の力を抜く練習をしていた。

サマーウォーズを見ながらも息を吐いて力を抜こうとした。

 

でも上手くできなくて、そのうち鳩尾が引き攣って痛くて苦しくなった。

劇中では栄ばあちゃんがにっこり笑って、

「あんたならできる」と名言を言った。

 

その時だ。

涙が溢れた。

 

励まされたのではない。

理解した。

私は怖くて悲しくて嫌で嫌で、悔しくて辛くて聞きたくなくて嫌で嫌で嫌だったのだ。

それがぜーんぶ鳩尾に入って硬くなって苦しいのだと、そう理解したら少し楽になった。

 

鳩尾を柔らかくする方法を調べた時、負の感情が鳩尾を硬くするという本当か嘘かわからない記事を見た。

 

でも今日ふと、私のこれはそうだったのだと思った。

とてもしっくりそう思った。

 

子供の頃から、私は「言わない」ことを選択した。

黙っていれば時間が過ぎるのが早いから。

黙っていればなんとかその場が収まるから。

 

つぎはぎの現実はどこかで綻ぶし、無理に押さえつけた負の感情は私の体に影響する。

 

溢れた感情は、本当は口に出して耳で聞いてさよならする方がいい。

まだ口に出せていないから、時間をとって見つめようと思う。

体を緩ませる糸口が見つかったのだから。

夢占い

病気になっている夢を見た。

病院とは到底思えないところだった。

廃墟だとかそんなんではない。

ホテルのような、スーパーのような、何かの店だった。

日本じゃない、海外にありそうな、外観はレンガ製の建物。

ローズガーデンとか言ってもいいかもしれない。

白いシャツに、腰に巻くタイプのカフェエプロンをした従業員がわらわらと休憩所にやってきていた。

駐車場近くの建物が休憩所で、私も最初はスタッフの1人だった気もする。その辺りはあまり覚えていない。

 

はっきり覚えているのは、誰も話しかけてくれない、心配してくれない、味方がいないということが凄く悲しく、ボロボロ泣いていたということ。

食事を取ろうと座った私の隣に座ったのは、別の病気を持った子だった。

初めは、病気の子はその子だけだったと思う。

その子だけが、恐る恐るだが私を気にかけてくれた。

目の前の別のテーブルには3人組の女性が座ってお喋りを楽しんでいたが、こちらには見向きもしなかった。

隣に座ってきてくれた子がいたのに、私はそれでも悲しかった。

泣きながら一口食事を口にしようとした時(パスタか何かだったと思う)、発作が起きてガタガタ痙攣し始めた私を見て、目の前の3人組はやっぱりこちらを見向きもせずに去って行った。

隣の子も、私の体をさするために手を伸ばしてくれたが、結局食事の乗った盤を持って離れて行った。

だがこの時、私は私の体に触れてくれたあの子も、私を置いていくと確信していた。

誰も私を受け入れてくれないと、全身で嘆いていた。そしてその通りになった。

 

やがて発作を起こして死にそうになっている私を介抱したのは、2人の医師だった。

特に執刀医は激しく怒った。

どうしてこの子をこんなになるまで周りは放っておくのか。

どうして誰もこの子を助けようとしないのか。

 

そうして彼は、私の胸を開胸して手術し始めた。

病院のオペ室で?

いいや。

休憩室の巨大な調理室でだ。

私が寝かせられたのは、ステンレス製の机だった。

そしてあり得ないくらい広く開胸されていた。

 

私の視点は、医師が私を介抱したあたりから第三者視点だった。

というより、幽体離脱状態というのだろうか。

私は私の体をしっかり動かして私を見ていたが、その時の私は絶賛開胸中である。

嬉々として血まみれになった医師に、一体全体どのような処置を施されたかわからないが、成功した!これでこの子は助かった!と満面の笑みで抱き起こされた私を見ていた。

 

夢は往々にしてごちゃごちゃしているものだが、手術が始まるころだったか終わる頃だったかに、母親がやってきた。

リアルの母親でない。

夢の中の私の母親だった。

母親なのに、私が発作を起こして緊急手術をしていてもケロッとして周りと普通に話し、なんならよく笑っていた。

まるでちょっと転んで怪我した子供を笑ってあやすような雰囲気だった。

 

手術が終わっても私はまだグズグズしていた。

誰も私を気にかけてくれないという思いが消えなかったからだ。

それでも医師が気にかけてくれたのだと思えて、少しぐずりはおさまっていた。

母親が来たのを知ると、やはり涙が溢れて抱かれた。

 

しかし、私はこの母親を好きになれなかった。

子供の一大事の時にへらへら笑っていた親である。

何も深刻にとまでは言わずとも、もっと気にかけて欲しかった。

 

さて、第三者視点の幽体離脱をした私が、自分の開胸シーンなんかを見て、それでもここは病院じゃないんだなと思えば、周辺はあっという間に病院になった。

病院の入り口まで螺旋状になった建物で、それなりに大きかった気がする。

 

何より不思議なのは、最初は大人だったはずが、泣きながら食事を取ろうとした時には思春期ほどの子供になり、手術後には4〜5歳程度の子供になっていたことだった。

 

大体はっきり覚えているのはこんな感じだ。

 

変な夢はよく見るので、ちょくちょく夢占いで検索する。

意味なんてなくてもいいのだけれど、見たもの対して何かしら意味をつけたくなるものだ。

 

心臓病になる夢

手術を受けている夢

心臓を取る夢 etc

いい意味も、悪い意味もあった。

当てはめてみると、手術が成功しているのでそこまで悪い夢でもなかったようだ。

ただ、精神的にまいっているとか、解決しなければいけないことがあるとか、そんな事も書かれていた。

それは事実なのだが、果たしてどう行動したものか。

 

気遣うことは大事だが、気遣いすぎるところは短所と言えるだろう。

私の人生だから、とサクサク行けたらいいけれど。

 

あたらしい ぶき を てにいれた

前々から欲しいと思っていたBluetoothキーボード。

完全分離型よりも、端末を立てかけて使えるものが欲しかった。

慣れるまでに少しかかりそうだが、特段問題はなさそうだ。

繋がりがやや不安定なときはあるが、遅延は特に感じない。

タブレットではなくスマホで使用しているので、画面が小さいけれどいい感じで満足。

 

ちなみに我らがドンキで購入。

ドン・キホーテ?それともドンキ・ホーテ?

どっちだっけ。

 

英語切り替えは「半角/全角」ではなく、Caps Lockで行うのはなかなかの落とし穴。

@も打てなかったが、説明書にちゃんとサポートページへのQRコードが載っていた。

…と書いてから気がついた。iOSモードにすると、「半角/全角」で切り替えができる。

一気に便利になった。基本的にパソコンのキーボードと同じ感じの使用感。

ちなみにiOSモードへの切り替え方は「Fn キー+Wキー」で可能。その他にWindowsAndroidモードとMacモードがある。

そしてわざわざサポートページを読み込まなくてもちゃんと説明書に書いてあった。流し読みしたことがバレてしまう。

サイズが小さくはあるけれど、十分な機能だと思う。

 

ちなみに購入したのはこれ↓

打鍵音は小さいが、程よい感触でちゃんと打っている感覚があっていい。

個人的にキーボードはガチャガチャ言うのが好きなのだが、軽すぎるのは好きではない。

音がしない、柔らかい感触のキーボードは打っている感覚がないので苦手だが、これはそんな私でも満足いく打鍵感だ。

 

接続方法は、他のBluetooth製品と変わらない。

設定でBluetooth接続を開くと、「keyboard」と表示されるので選択して接続。

これで接続完了のはずなのだが、打ち込み出来るまでに時間がかかる。

その上、一度スマホをスタンドから離すと、再接続をなかなか認識してくれない。

そんなときは設定画面を開いて、FnキーとEscキーを同時押し。

もう一度設定のBluetooth接続画面に戻ると、「ELECOM TK-DCP01」の表示に変わっているので、それを選択すれば再接続完了。

 

接続時に認識するまでやや時間がかかるところと、スタンドに乗せると左上のランプが付くがすぐに消えるので、接続できているのかよくわからないのが難点。

それ以外はいい感じ。

 

総評:★★★★☆

 

 

 

言葉を音として聞く

私は昔から、曲を聞きながら歌詞を理解することができない。

だからどんなに「良い歌詞!」「歌詞に共感した、感動した」という感想が寄せられていても理解できないのだ。

なので私の曲の好みは8割方メロディーで決まる。

どれだけ変な歌詞だとしても、あまり理解していないからメロディーが好みならそれでオッケーだったりする。(バラード系は気持ちまで暗くなるのでほとんど聞かない。)

音楽番組だと、歌詞を字幕で出してくれるので「あ、これってこういう意味だったのか」となることも少なくない。

 

とはいえ、まったく言葉として聞こえていないわけではない。

何度も聞いていればさすがに覚えるし、口ずさむこともできる。

でもその意味までを理解できているわけではないのだ。

説明が難しいし、理解してもらうことも難しいだろうが…。

最近は何度か聞いていれば、「あ、これってこういうこと言っているのか」とわかるようになってもきたので、曲を聴いている時に意識して聞いているか、BGMとして聞いているかの違いなのかもしれない。要はマルチタスクが出来ていないということだろうか…。

 

子供のころから聞き間違えることはよくあったのだが、不思議なことにメンタルがやられている時は、それが顕著に表れた。

聞き間違いでなんとか予想できるのならまだいい。

人の言葉がうまく耳に入ってこなくて、会話が成り立たないのには困ったものだった。

まったく会話が出来なかったわけではない。なんとか話しを繋ぐことが出来ていたから、多分そこまで変な人と思われることもなかったのではないかと思う。

 

これは仕事を始めてからは少し鳴りを潜めているような気がする。

(仕事を始めるときに、すごく緊張したのを覚えている。頑張って聞き取ろうと気合を入れていたのも…。)

それでも一生懸命聞いているつもりだが、その言葉のイメージが出来ないと理解できないことは今でも時々ある。

話をしながら、今何の話をしているんだっけ、とか

この話はどこからこっちの話になったんだっけ、とか

単純に私の理解力が不足しているともいえるかもしれないが、こういう時の私は、耳から入った言葉が頭の中で一回転して反対の耳から抜けていく、ような感じなのである。

 

何か困ることを言われて、その場でさっとうまくかわせる人をうらやましく思う。

これは何もうまく聞き取れないことだけが原因ではなく、個人の遣り込める引き出しの多さや立場などももちろん関わってくることではあるのだが。

私の場合、話を聞いてから少したって頭の中で「あれはどういうことだったのか」と思い返す作業が必要な時がある。

 

思い返すことが、意味の理解のためだけだったらよいのだが…。

とはいえこれらは訓練が必要なようだし、なんとか頑張るしかないのかもしれない。

今のところはなんとかなっているのでよしとしよう。