モンブランはどんなもん
うまいタイトルにしてみたかったのだけれど、私のセンスはこんなもんだ。
最近、モンブランにハマっている。
とはいえ、ケーキ屋さんで買ったことはなく、もっぱらコンビニスイーツなんだけれど。
子供の頃、母が栗が好きではないせいでモンブランを食べるという選択肢がなかった。
興味を持っても「あんなのおいしくないよ」と言われていた。
それでも買ったとしよう。きっとあの人は食べている目の前で、
「よくそんなもの食べれるね。信じられない。うぇー」
と言っただろう。そういう人なのだ。
だからなのかなんなのか、今でもモンブランは母のいない隙をついてこっそり食べている。
今は別に嫌味なことを言われても言い返せるだろうけれど。
とはいえ、コンビニやスーパーのモンブランは甘いなぁという印象しかないというのが正直なところ。そもそも栗の主張がそれほどでもないせいもあるのだろうけれど、イタリア産の栗を使用と書かれていても、あまり有り難みを感じられない。
モンブランの味がよくわからないから、今日も私はコンビニモンブランを求めるのだ。
…ただ甘いものが食べたいだけともいう。
今1番気になってるのは星野珈琲のモンブランスフレパンケーキ。
今度の給料日にはモンブランを買って帰ろうかな。
夢で運転はしたくない
夢かどうか確かめるために頬を抓る
という表現方法がある。
痛ければ現実で、痛くなければ夢の中。
とてもわかりやすい描写である。
じゃあ実際の夢の中はどうなのかと言えば、もちろんそれは人によるけれど、私の場合は触覚も嗅覚も味覚もある。(味覚は極たまにだけれども)
触覚を実感したのは、私が公民館のようなところにいて玄関先で外を見ていたところ、駐車場に何も考えず車で突っ込んだ人が、周りの車や色んなものを薙ぎ倒した夢だった。
色んなものの中には馬もいた。
可哀想にと駆け寄った私の下半身はすぐさまその馬の下敷きになった。
なぜなら、馬自ら首から頭にかけてを私の足に乗せてきたからだ。
その間にも男は淡々と周りの様子を確かめて、天地が見事にひっくり返った車をどうにかしていて、私はこのままでは逃げられる!と馬の下敷きから逃れようとした。
ところがどっこい。
その馬はとても表情豊かに悲しそうな鳴き声をあげて、車に轢かれた!慰めて!どっか行かないで!とむしろのしかかってきた。
結局そこから動けずに、私は大声で叫んだ。
「ちょっと!誰か!その人を捕まえて!」
とかなんとか言った気がする。
でも、だぁれも出てこないのだ。
男性はどこまでも無表情で、無言だった。
そして元に戻った車で、またまた色んなところをぶつけつつ走り去っていった。
という夢だったのだが、起きてみて思った。
あの馬重かったな…と。
そして妙に暖かく、筋肉のハリや動きがあったなと。
嗅覚に関しては、ほぼ起きている。
夢の中で感じる匂いは、大体そんなにいい匂いじゃない。
悪臭過ぎて飛び起きるほどではないけれど、実際に鼻がムズムズしてきて、鼻をゴシゴシ手で擦る。
ゴシゴシ擦れば目が覚めて、でもまだぱっちり起きるほどじゃない。
そして、目覚めるとその匂いはさっぱりなくなってしまうのだ。
夢を見るのは嫌いじゃない。
でも夢の中で車を運転することほど嫌なことはない。
なぜって、どれだけ踏み込んでもブレーキが効かないからだ。
ブレーキを目一杯踏んでも、クリープ現象で動き続けている感じ。
だから夢の中では、なるべくというかほとんどスピードを出さないのだが、それでも減速する気配はない。
加えて今日は、大人四人(内100キロ超えが1人)に子供三人を乗せて山道(坂)を下るという最悪の夢だった。
しかも途中でスピード違反で警察に止められている車が反対車線にいて、車の定員に対して人数も多いし、スピード出してないけどブレーキ効かないしで冷や汗ものだった。
挙句、パトカーで待機していた警察官が私の車が通り過ぎたあとに、その道を封鎖して、チラチラとこちらを見ているのだから、切符も待ったなしかと焦るしかない。
まあ、止められなかったからそのまま下山したのだけども。
ああ、大変な夢だった。
あんかけチャーハンが食べたい
晩御飯はピザの予定。母がわんさか具を盛り付けていて、普段の物よりボリューミーだ。
私は刺身とあんかけチャーハンが食べたい。
あんかけチャーハンは紅虎餃子房のやつがいい。
お刺身はサーモンがいい。マグロもいいな。ハマチだったらもっといい。
人に食事を作ってもらっていると、食べたいものと用意されているものが違うことはよくある。
それと同じようにやりたい事とやっている事が違うことだってよくあることだ。
やってみたいことはいくつかある。
目指したいものもある。
ぐわっとやる気が満ち溢れるとき、なんでもできるような無敵さを自分の中に感じるが、私の場合それは本当に長く続かない。
なぜ長く続かないのか。
きっとその無敵さを感じている時に、さっさと行動に移さないせいだ。
夏休みの宿題は、最後までやらない子供だった。
最初の授業日が締め切りなのをいいことに、やりたくないことを全部後回しにしていた。
悪癖と言っていい癖だ。
仕事をするようになって、むしろ面倒くさいものは先にやってしまおうと思うようになった。
やっと見つけた仕事だ。
人よりスタートが遅く、同年代の人よりも圧倒的に社会経験も貯金も少ない。
どうしても自身が持てなくて、他人から背中を押して欲しくて、意見を聞いてから行動しようと悠長に構えていた。
その間にやる気がしぼんでしまった。
やる気がしぼむのはなぜだろう。
ただの興味本位で、強い気持ちがないからだろうか。
とはいえ、まったくやりたいと思う気持ちがなくなったわけではない。
ただ、現状を維持していれば家族仲は安定し、親の夫婦仲も安定し、とりあえず波風立たない日常を過ごせる。
それを維持しようとして、やる気がどこかへ行ってしまっているのではないだろうか。
子は鎹というが、また自ら勝手に鎹になっているのではないだろうか。
「両親に引っ張られるのではなく、両親を引っ張っているという意識になればもっと強くなれますよ」
以前、こんなことを言われたことがある。
今になって実感する。
親や家族のことに対するトラウマとも言えるものが発動して、無意識下で安定している今を維持することを選んでいるのなら、どうにかしてそこから這い出したい。
私は故郷が好きだし、実家が好きだし、なんだかんだ両親のことも好きだし、姉達、義理兄、姪が好きだ。
離れている方が我が家は安定しているように感じる。
父と母の問題は二人で解決してもらわなければならないことだ。
それを解決するかどうかを選ぶのは父であり、母だ。私じゃない。
思い切ってまずは仕事をやめる勇気が今は欲しい。
ふりがなは全て訓読みで書くわけじゃない
職場のとある登録システムが導入されてからそれなりに経つらしいのだが、いまだにまともに使いこなせる人がいない。
もともと少ない人数で回しているせいもあるし、事務作業をする人が極端に少ないせいもあるし、そんなのに登録したところで誰も確認も参考にすらする人がいない、というのがシステムが生きていない理由である。
とはいえ、監査で見られるからという理由で私が入力作業を行うのだが、一体いつから入力していないのか、導入されたであろう時期の情報ですら記録されていないことが多い。
今までの監査は一体どうやっていたんだか。
定期的な更新が必要なわけではないようだが、数年前の記録を修正しようとすればエラーで操作できなくなるし、紐付けするものがあっても、記録はあるくせにそんなものは存在しませんと表示される。
システムそのものから機能していないとは、これいかに。
項目を追加するには金が掛かるそうだが、いまだにこのシステムを参考に動いている人がいないので、そこに金をかけなくとも…となる。
とはいえ紙でずっと情報を保管していて、いざ何か災害が起きましたとなった時にはデータとしての記録は不可欠であろうから、多少なりとも使っていくべきなのだけれど。
マニュアルを作ってくれと言われるが、一応あるにはあるのだ。
みんなに行き渡っていないだけで。
システムの更新は必要ないようではあるが、どうしても腑に落ちないのが、ふりがな欄である。
例えば、「斉藤 幸子」さんという顧客がいたとしよう。
普通なら「さいとう さちこ」さんと入力されていそうなものだが、
「さいふじ しあわせこ」となっていたりする。
不便なことに、検索する際には全てひらがなにしなければならない。(部分一致という条件であるから、フルネームを入力しても検索にはヒットしない)
従って、上の例で「さいとう」と打っても、ふりがなは「さいふじ」なのだから、検索結果には表示されない。
そうして、1人の顧客で2つも3つもアカウントが出来る始末なのだ。
くすりと笑える余裕があればいい。
しかしそういう、変なふりがなの顧客に限って紐づけたい情報がすでに紐づいていたりして、てんやわんやすることになるのだ。
操作性が大変悪いものだから、余計に腹が立ってくる。
どうして「山辺 康弘」が
「やまあたり やすしひろし」になるのか。
(※もちろん偽名である。)
そんなもん検索でヒットするわけもない。
どこの漫才師だと頭を抱えたくなる気持ちはわかって頂けるだろう。
イライラを通り越して結局笑うしかない。
今はふりがなまで全て手入力だが、以前は入力したままが自動入力されていたのだろうか。
どうしてそうなったのか、謎は解明されないままだ。
ボクシングジムを見る少年
先日、ボクシングジムを覗き込んでいる少年がいた。
職場近くの雑居ビル1階にあるそのジムは退勤時の信号待ちで停車する通りにあって、私はほぼ毎日その前で止まる。
サンドバッグが6つほど天井から吊るされ、奥には簡素な(実際に近くで見たことはないのでどんなものかはわからない)リングがある小さなジムだ。
体を鍛えるためなのか、アマチュアボクシング選手か本気でプロを目指しているのか、数名の若者が利用しているのを見かける。
その日は珍しく2名がサンドバッグを相手にしていた。
件の少年は、母親と帰宅途中のようだった。
きのこマッシュの髪型はサラサラで、トートバッグを持っていて、ピアノか何か習い事の帰りだろうかと思ったのを覚えている。
何故帰り道かと思ったかと言えば、全く急いでいなかったからだ。時間に余裕があったのかもしれないけれど。
その少年は手足がひょろりとしていて、筋肉とは無縁な様子だったが、信号待ちの間ずっとジムの中を覗き込んでいた。
凄いなと思ったのは、彼が夢中になってジムを覗き込んでいる間、歩行者信号は青だったのだ。
にも関わらず、母親は彼をせっつくことなく待っていて(まあ、その母親もスマホを弄っていたかもしれないが)ギリギリになってようやく彼に、少々待ちくたびれたように声をかけた。
その育ちの良さそうな雰囲気の彼と、荒々しい格闘技のミスマッチさに、やっぱり男の子はこういうものに憧れるんだろうかと思った帰り道だった。
何度目かの初めて
ブログをやってみようと思ったことは何度もある。
それこそ、子供の頃は日記をつけることが流行ったときもあった。
…ような気がするけど定かじゃない。
なんにせよ、その当時の私も挑戦してみたのだが見事な3日坊主で終わった。
それ以降、何度かやってみようと思いつつ、この時のことや、そのほかの続かなかったこと等を思い出すと筆が進まなくなる。
さて何故だろうかと考えると、
「日記」もとい「ブログ」は、「毎日書かなければならない」という思い込みがあるのではと思い至った。
もちろん私自身の性分によるものも、大いに関係するとは思うけれど。
だからこのブログは、
不定期に、
書きたいなーと思ったタイミングで、
好きなように書く。
と決めてしまおうと思う。
そんな無理してまですることではないんだけれども、頭の中でぐるぐるすることを、どうにかしたかったのだ。
誰かに話せばいいことではあるけれど、
いかんせん私は人付き合いというものが苦手で、友人が少ない。
会えば楽しくお話しするのだが、まとまっていない考えなどは話せない。
誰かと長電話して近況報告しあうということもなく…。
そもそも長電話どころか電話自体が好きではない。
要するに、ただ頭の中を整理したいだけの場所になる予定だ。
特定のカテゴリを定めても、それ以外も書きたくなりそうだから何も決めずにやってみよう。
とりあえず、何かやりたい気分だから。